オーヴァンの結末

この物語の結末を少年ジャンプ風にいうなら、「ハセヲがラスボスのオーヴァンを倒した。そしてヒロインの志乃を救いだした」です。

ただ、詳細は疑問だらけです。ハセヲとオーヴァンの接触で再誕が発動したのはなぜか。それでなぜ志乃は意識が戻ったのか。ハセヲはオーヴァンに何をしたのか。そもそもその接触(見方によっては対決)は、なぜ行われなければならなかったのか。オーヴァンやアイナは結局どうなったのか。オーヴァンは結局何がしたかったのか。

まずは、オーヴァンが何をしたかったのかについて紐解きます。

 

 

 

 

 

オーヴァンは結局何がしたかったのかについては、目的と手段を分けて考えてみましょう。目的は明かされました。「愛奈を救いたい」です。そして手段については、オーヴァンは「探していた」の一言につきます。そして「再誕の発動」という答えに辿りついたのでしょう。

 

再誕とは、オーヴァン曰くコルベニクの真の力だそうです。オーヴァンはアバターの召喚はできているので、真の力とはアバターのことではないようです。では何を指すのでしょう。おそらくは「感覚肥大」のこと。嗅覚や聴覚などの肥大が、オーヴァンには起きていないと発言しています。これが肥大化することが、イコール再誕の発動につながるのだと想像できます。

つまり、「愛奈を救いたい」という最終ゴールのために、「感覚肥大」を経て「再誕の発動」というルートがオーヴァンにはみえたのです。

 

なぜオーヴァンには感覚肥大がなかったのか、痛みを感じないとはどういうことか。これは、オーヴァンの碑文が司る阿頼耶識についてと、「The World」との関係などをしっかりと包括する必要があります。

 

 

普段は二感でしか捉えられないはずの The World で、碑文使いPCだけは五感で捉える事ができます。からくりを解明してみましょう。

このゲームは、M2Dというディスプレイを通してプレイするのですが、M2Dは「匂い」などは出さないはずです。 ではなぜパイは「匂い」を感知することができるのでしょう。人は「匂い」を感知する鼻という器官を持っていまして、それが刺激されることで匂うのですが、その刺激の要因が、通常だったら外的なものなのですが、 The World においては脳内的なものである、ということなのでしょう。つまり、匂いを「脳が」反応したにすぎないということです。碑文使いPCの碑文の正体とは「 The World 内のデータから、五感が反応する要素をプレイヤーの脳に伝えるツール」と定義付けられるのではないでしょうか。

 

さらに細かくいきます。

 The World 内のデジタルデータに「五感が反応する要素」があるはずもないと思います。それは感じとるものなのではないでしょうか。例えば「abc.html←クリックしてね」というデータがあったとします。通常は無機質なデータに過ぎませんが、パイに知覚させたときには「なんかヤバイ感じがプンプンする」という「匂い」を感じとり、実際に「香り」として脳に伝わる、ということなのでしょう。

感じとる。それはつまり情動です。

「あるデータ→情動→ツールが作動→能が反応」

これが碑文使いにおける The World の認識の仕方なのではないでしょうか。

 

ではオーヴァンについてです。彼には痛みがないのだという。これは先ほどの式の中でいえば「脳が反応」しないということです。式の通りにデータが脳に届かない。それは途中の「情動」が反応しないから、と言えるのではないでしょうか。

 

データドレインの力をPCにくらうと、リアルと同じように痛みが走ります。しかしそれは、そう決まっていることではなく、先ほどの式に当てはめて、「データの欠損→やられたという情動→ツールが作動→能が痛いと反応」ということが起きていると考えられます。オーヴァンにいたっては「やられたという情動」が起きないため、「ツールが作動」しない、ひいては「脳が痛いと反応」しない、ということなのではないでしょうか。

「やられたという情動」が起きないとはどういうことか。彼は強固な精神力の持ち主です。つまり精神がぶれない、そんなもの痛くも痒くもないという精神力を揺さぶることができない、ということなのではないでしょうか。

 

アバターは精神力。碑文使い同士の戦いは精神のぶつかり合い。

「エンデュランスを見極めろ、ハセヲ――」

 

 The World の戦いにおいて、肉体などどれほどの意味もない。精神力のぶつかり合いなのだから、やられたと思ったほうが負けなのです。

オーヴァンは、その強い精神力のためにやられたと思うことがない、ゆえに痛みを感じる事ができないのです。

 

 

 

 

 

さて、その強い精神力のために痛みを感じなくなったオーヴァンですが、彼はその痛みこそ求めているものだと発言しています。痛みを識らぬものがより高次の段階へ進むことはできない、「再誕の発動」が叶わない、ということらしいです。

これを先ほどの式にてらすと、オーヴァンの碑文である阿頼耶識の「ツールが作動」することが「再誕の発動」することと同義であり、「ツールの作動」のためには「情動」が反応することが必須である、と言い換えることができます。

 

簡単に言ってしまいましょう。彼は負けたかったのです。精神力の戦いにおいて。彼の心が負けを認めれば、「情動」が反応する。反応させたかったのです。そうすれば「再誕の発動」ができるというわけです。

初めに彼はそれを理性で為そうとしました。しかし理性でそれを得られなかった、つまり理解できなかった終盤の彼は、「ツールの作動」による「脳の反応」に委ねたのですね。

ハセヲに対して、先生のように長々と語り続けたのはこのためです。ハセヲに自分を見極めてほしかった。自分の弱点を、真実と虚構を。負けたいがために…。

 

もう少し詰めましょう。オーヴァンは負けたかったわけですが、その相手がなぜハセヲだったのでしょう。たまたまではありません。4巻の途中で、もう少しでオーヴァンはパイに負けそうになっています。パイはオーヴァンを見極めかけていた。オーヴァンがただ負けたいだけならば、そのまま負けてもよかったはずです。ですがオーヴァンはそれを良しとしなかった。なぜならば、ハセヲに負けることを望んでいたからだ、と考えるしかありません。

考えられるのは、負け方の問題だと思います。ただ負けるだけではだめだった。

 

ここで「脳の反応」について深掘りしてみましょう。例えば、痛みを識らない子供が痛みを識ろうと思えば、殴られればいい。UFOがどんな形をしているか識らない一般ピーポーがそれを識ろうと思えば、UFOを実際に見ればいい。

「再誕の発動」を識らないオーヴァンがそれを識ろうと思えば、「再誕の発動」の仕組みを理解できるような「脳の反応」を起こせばいい、となります。「再誕の発動」の仕組みを理解できるような「脳の反応」を起こすには、「そういうツールの作動」が必要になります。「そういうツールの作動」とは、阿頼耶識の碑文を反応させることです。阿頼耶識の碑文を反応させるためには、「そういう情動」が必要になります。

オーヴァンは、「阿頼耶識の碑文を反応させることができるような情動」を求めていた。それは、簡単にいえば=「痛み」という括りではあるものの、単純な痛みとは違うということなのではないでしょうか。例えるなら、痛みを識らない子供にUFOを見せたところで、痛みを識ることはできないのと同じで、阿頼耶識に関係ない痛みを感じたところで意味はないのではないでしょうか。

 

では「阿頼耶識の碑文が反応するような痛み」とは何か。要するにそれは「死」なのではないでしょうか。オーヴァンのこんなセリフがあります。

 

 「おれは第八相――<再誕>コルベニク。為すものは第八感、それを阿頼耶識という。だが、ゆえに、おれはまだ<再誕>の真の”力”を知らない。未だに痛みの種子を植えつけられてはいない。『おれ』は心理を手にすることはない」

オーヴァンが我識を滅した阿頼耶識を為すならば、『おれ』が痛いと感じることはない。

 

いろいろなことを読み解ける文脈ですが、一つ抜き出して解釈するならば、痛みの種子を阿頼耶識に植えつけることは、『おれ』という自我がある以上できない、つまり阿頼耶識が反応する痛みを得るためには自我を消すしかない、つまり死ぬしかない、と読み解けるのではないでしょうか。

 

 The World における「死」とは、PCのHP0を指さないのはもちろんのこと、碑文使いPCにとってはデータドレインの攻撃による意識障害も含みません。意識が回復してしまうからです。

ではどうすれば「死」ねるのか。それがハセヲに執着した意味なのです。

 

ハセヲの碑文は、第一相<死の恐怖>スケイス。娘アウラを殺そうとした想いのアーキタイプ。

それが為すものとは、無意識の我執。アウラを殺そうとした瞬間に自我に目覚め、同時にあらゆる苦しみの始まりとなった我執に縛られる人(楚良)との融合のキッカケとなった識。まさに菩薩が如来となるために消しさらなければならない自我を、留まらせるよう執着させる識。ゆえにその識を為すスケイスでは、自我を滅することはできなかった。これが最終フォームになる前のハセヲの状況です。

 

しかし、救いの道を求め、無意識に覚悟を決めたハセヲはまさに菩薩そのものであり、自らの内の真実を識ったハセヲが全五二段の如来への道の一段を登ることができたとき、フォームを翼人に変え、それは新たに救いを求める者にとっての信仰の対象たる菩薩になりえた。自我などないと教えるに足る力を得たそのとき、オーヴァンにとってはその攻撃が自我を滅するに足る力になりえたのです。

 

自我を滅する力とは、この世に生きる者にとっては「死」を意味します。「死」を教える力。それが<死の恐怖>の真の力。その力を以って、オーヴァンはハセヲに殺されたかったのです。そのときこそ「再誕の発動」を識れるとき。「再誕を発動」できるときだった…。

 

 

 

 

「――美しいよ、お前は」

 

オーヴァンのセリフです。オーヴァンがハセヲに心から屈服した瞬間でもあります。自分を言い負かせる相手を、自分が敵わないと思わせてくれる相手を、彼はようやく手に入れたのです。

 

あらゆる神に祝福されたエルフ

いかなる生き物よりも強く、美しく、賢く

しかし闇を知らぬゆえに、みずからを肯定することしか知らなかった卑徒

――まさにオーヴァン。

 

ハセヲによって闇を教えられ、死を教えられたとき、彼は卑徒の業から解き放たれました。少女サヤの冒険の結末は、このように書き換えられたのでしょうかね。それとも元々そういう物語だったのか…。

 

 

 

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