最後に、梨花サイドと入江機関サイドの視点から、4年目の祟りを追ってみましょう。
暇潰し編
梨花「そしてさらに翌年の昭和57年の6月の今日。沙都子の意地悪叔母が頭を割られて死にます」
もはや当然なのですが、4年目の祟りを誘導、誘発していったのは、もちろん梨花の思惑です。梨花にとっての4年目は、計画の締めの部分に当たるかと思われます。自身の両親、沙都子の両親を排除でき、最後の身内である北条叔母を排除できれば、いよいよ沙都子の引取先が自分しかいなくなる。それが狙いです。
目明し編
梨花「……では沙都子。…沙都子の辛いのが、今日でおしまいになるなら、沙都子は笑ってくれますですか…?」
このセリフ通りです。
梨花にとっては、この4年目が『オヤシロさまの祟り』の集大成だった。この日が、梨花の長きにわたる計画の最終日になる予定だったのです。
4年目の祟りに鉄平が含まれずに叔母だけになっているのはおそらく、『叔母と喧嘩した鉄平に頭を叩き割って殺してもらいたい』という計略を表しているのかと思われます。叔父叔母がしょっちゅう喧嘩していたのは、周知の事実です。梨花はこれを、例の手口で加速させるだけでよかった。沙都子に飛び火しないように、その当日だけは沙都子をこの夫婦から隔離すればいい。二人の間で暴力沙汰になれば、力関係(物理)により叔父が叔母を殺すことが、すでに決定した未来であるかのようにありありと想像できます。
叔母が死に、鉄平が警察に捕まる。こんな展開で、沙都子の身寄りをすべて排除しきるつもりだった。
ですがおそらく、鉄平が雛見沢から逃げ出してしまったことは誤算だったのではないでしょうか。だから梨花は計画を修正せざるをえなくなった。とりあえず叔母を排除しようと、その実行者として新たに悟史に目を付けたのです。やり方は2年目と同じです。
カートを叔母に盛り続け、悟史には抗うつ薬を盛り続けた。そうしていくうちに悟史には、裏側に悪心を抱くもうひとりの自分が育った。梨花が育てた。
そして事件当日、悟史にカートを盛った。気力と行動力が回復したこのときの悟史が、事件直前の窓から飛び出す際の描写で表れています。アンフェタミンの効果で、こんな感じになっちゃってるってことです。
梨花ちゃんは沙都子に対しては、2年目の前段階で警察を欺く力を伝授して鍛えました。警察に捕まってはいけないから。悟史が捕まってもいいとは、たぶん梨花は考えていなかったと思っています。沙都子に危害を加えることのない、沙都子の一番の味方です。だから悟史にも、警察に即捕まることがないだけの計画を立てさせたかったでしょう。
ですが、時間がもうなかった。鉄平が家から逃げ出したのが祟りの日の直前。今さら悟史に実行犯を任せても、警察機構を一時でもいいから欺けるだけの力を伝授するには遅すぎました。しかしそれでも梨花は、問題ないと思っていた。なぜなら、悟史が先を読む力を普段から鍛えられていることを知っていたからです。
それは部活。
魅音が始めた部活は梨花にとって、先を読む力、相手、敵を読む力をつけさせるのにとても好都合だった。魅音ははじめは負けっぱなしだったそうです。それが5年目には常勝女と化しているんですから、部活動がどれだけ先読みの力を向上させるのに役立つかの証左になっているわけですね。部活動のおかげで梨花は、2年前のように、特別自分が悟史に何かをする必要はなかったのです。
それでも多分、悟史にはそういったセンスが無かったんでしょうね。。。だから悟史は、こんな間抜けな計画を立て、まったく思い通りにならなかったわけです。スーパー天然悟史くんに未来予測なんて、ましてや誘導なんて、所詮無理だったんですね。
梨花の先読みの力をもってしても、天然の悟史の思考を的確に捉えることができなかったのでしょう。だから梨花も、悟史の犯行計画の中に、まさか「叔母の殺害が含まれていなかった」なんて思いもしなかった。2年前の家庭環境を再現するだけで、悟史は叔母に敵意を向けるものだと、それが自然な思考だと思っていた。
祟りの日が近づくに連れ、悟史の邪念、悪意が、沙都子の方にも向きだしたことには、梨花も気づいたのでしょう。だから梨花は、悟史の計画が「叔母を殺すこと」から「叔母と沙都子を殺すこと」に変わった可能性があるな、と思ったと思います。
お祭り当日、梨花が沙都子にべったりくっついていたのは、このためです。悟史が考えることは、沙都子をどこかにおびき出すことだとわかっていた。だから、沙都子が気がついたら消えていたなんてことが絶対に起きないよう、ベッタリと張り付いて監視するしかなかったのです。
多分、その後のゴミ置き場の机を運ばなきゃ云々の沙都子のセリフで、悟史に人気のない所に呼び出されているなと、それが悟史の計画だったかと、梨花はすぐに読めたでしょう。当然、沙都子にそこに行かないように言いくるめたでしょう。そして時間をおいて帰宅するだけでいい。梨花は自分の家に一旦寄るように言ったのでしょうね。そうして時間を稼げば、叔母と遭遇することもない。結果、悟史が呼び出せるのは叔母だけとなり、沙都子は無事にスルーできる。
こうやって沙都子さえ守りきれれば、叔母だけに消えてもらうことができると思った。だから、梨花がお祭り当日にやらなきゃならないことのすべては、沙都子にべったりと張り付いて、絶対に一人にさせないことだけだった。叔母が死んだ実際の理由、葛西(園崎)の思惑は、さすがの梨花も読めなかったと思いますので、結果的に叔母が死んだことは、梨花にとって予想外の幸運だったといえるかと思います。
そしてその後は、悟史を入江機関に患者として迎い入れてもらうために、しばらく悟史にカートを盛り続けた。そうして沙都子と同じ診断を入江機関に下してもらうことで、警察の捜査を終了させたかった。生体解剖の心配はもう無いでしょう。入江機関には、もう生体解剖しなくてもいいだけの薬は作らせることができていますから。無事、悟史を入江機関に拘束させたならば、カートの投与をやめ、悟史の回復を待つだけでよかった。2年目の沙都子と同じ展開になるはずだと、梨花は信じて疑わなかった。
これが、梨花の後悔の始まりだった。
悟史は沙都子とは症状の重さが異なっていた。悟史は、精神刺激薬精神病を患った後、薬物の耐性が脆弱だったため、本格的な統合失調症を疾患し、それを原疾患とした緊張病を併発、さらにその中でも重症の悪性カタトニアを発症してしまったのでしょう。
緊張病(カタトニア)とは?あがり症とは違うの?症状や治療法について解説します。
(抜粋)
緊張病(カタトニア)は、長時間動きが止まってしまう、動作が遅くなってしまう、同じ動作を繰り返してしまう、自発的な動きができなくなるといった体の動きが低下する症状を起こす症候群です。
緊張病(カタトニア)には様々な原疾患があります。
1. 精神疾患:
急性ストレス障害、自閉症、双極性障害、気分障害、統合失調症、PTSD
2. 神経疾患:
てんかん、パーキンソン病、ハンチントン病、プリオン病、進行性核上性麻痺、進行性多巣性白質脳症、可逆性
後頭葉白質脳症、脳腫瘍
(抜粋)
緊張病(きんちょうびょう)、カタトニア、カタトニー(Catatonia)とは、精神運動の低下および昏迷状態に代表される異常行動を特徴とする状態である。
DSM-5においては、緊張病は単独の疾患としては分類されていないが、統合失調症(カタトニア型)、双極性障害、PTSD、うつ病、その他の精神疾患、ナルコレプシー、 薬物乱用、抗精神薬などのオーバードーズなどにその原因が探られている。
また、抗精神薬を含む処方薬に対しての副作用である可能性があり、それはlethargica脳炎および神経弛緩性悪性症候群(neuroleptic malignant syndrome)などの状態にも似ている。治療法はベンゾジアゼピンが第一選択肢となる。
カタレプシー(不自然な状態の姿勢を緊張から維持し続ける)、あるいは非常に興奮した状態になる。
(抜粋)
悪性カタトニアは、緊張病症候群、高熱、自律神経症状および精神状態の変化からなる疾患である。抗精神病薬によって引き起こされる神経遮断薬悪性症候群は、悪性カタトニアの亜型とみなされ、ベンゾジアゼピン系薬剤は、悪性カタトニア症状の迅速な改善をもたらす安全かつ有効な治療法である。
症例は、50代男性の統合失調症患者で、入院3日前に内服薬を全て自己中断した後、興奮、独語、筋強剛および不眠のため精神科の他の病院に入院した。患者は高熱、頻脈、高血圧、過度の発汗および血清クレアチンホスホキナーゼ(CPK)濃度の上昇などを呈したため、神経遮断薬悪性症候群が疑われた。ダントロレンで7日間治療され、血清CPKは正常範囲内となったが、意識障害、高熱、自律神経症状など身体状態の改善を認めなかった。そのため、患者は当院に移送され、身体状態の精査を行った。精査にて感染症や肺塞栓症などを除外した。その後、興奮や幻聴の治療のためにハロペリドールの静脈内点滴を開始したところ、血清CPKは正常範囲内にとどまっていたにも関らず、高熱、自律神経症状は改善せず、緊張病および精神病症状が増悪した。臨床経過より統合失調症に伴う悪性カタトニアと診断して、治療薬をベンゾジアゼピン系薬剤に変更したところ、諸症状は急速に改善した。
(抜粋)
・興奮症状発現時、312例(75.5%)において、追加投与が行われた。そのうち、281例(90.1%)では、抗精神病薬が併用されていた。
・抗精神病薬を追加投与した患者では、しなかった患者と比較し、総投与量が有意に多くまた併用率もより高かった。
・興奮症状発現時における、併用薬を含む抗精神病薬の合計投与量は過量投与であり、かつ多剤併用であることが示された。
これが、悟史が戻ってこれない理由。悪性カタトニアという症状は、入江が開発したC系、つまり抗精神病薬の類の薬では治らないどころか、文献によれば逆に悪化するのだそうです。悪化(統合失調症の急性増悪)を表しているのが、悟史が誰彼構わず攻撃してしまう症状のことでしょう。そうでないときは、昏睡状態になっている。
これはつまり、入江の開発したC系(抗精神病薬)が逆に悟史を悪化させていることを意味しています。文献によれば、逆に鷹野が開発したH系、つまりベンゾジアゼピンの類の薬こそ悪性カタトニアの特効薬であった。
おそらくちょうどこの頃だったのでしょう。H系の薬の開発がなくなり、すべて廃棄されてしまったのは。だからこそ、悟史の治療薬が、偶然にもこの世界から無くなってしまっていた。いくらC系の薬の改良を続けようとも悟史の症状は改善しない。
沙都子と同じ病状だと思ってしまった診断ミス。沙都子が治ったんだから悟史も治るだろうと安易に投与したミス。悟史は、入江の善意で、入江によって逆に悪化の道を辿っていった。これで、悟史は戻れなくなっていったのです。
ここでひとつ、疑問が浮かびます。この状態になった悟史は、なぜ鷹野に生体解剖されなかったのでしょう。その理由はひとつしかないと、私は思っています。
生体解剖の検体が、悟史以外にもうひとりいた。
だから鷹野はそちらの研究で手一杯だったために、悟史を解剖させたくなかった入江の進言を受け入れ、悟史が即解剖に廻されることがなかったということなのではないでしょうか。
これで、叔母殺しの容疑者が、刑務所内で突然の怪死を遂げたことにも説明がつけられます。鷹野は4年目の怪死事件を受け、その実行犯に興味が湧いた。ぜひとも解剖したかった。だから入江機関の力を使って、変死したと捏造し、その人物を拉致したのではないでしょうか。
そして、入江が悟史を病院に搬送した頃が、鷹野にとってちょうどその人物の解剖計画が進んでいるところだった。入江は、悟史くんを解剖するのは待ってほしいと言ったのでしょう。鷹野はまあいいかと思えた。なぜなら、解剖できる検体はここにもいるから。こんな状況だったから、悟史は助かったのではないでしょうか。
そしておそらく、鷹野が拉致した人物からは、雛見沢症候群の病原体(vCJD)を検出できなかったのではないかと思っています。異常な事件を起こした人物は、雛見沢症候群の発症者ではなかった。だから、悟史も罹患していない可能性もあるという、医学者ならば当たり前の視点を彼らはようやく持つことができた。
これを受けて入江は、梨花にしたような頭蓋に小さな穴を開けて脳を調べる実験を、悟史に対して行ったんだと思います。そして、悟史からも雛見沢症候群の病原体が検出できなかったことを証明したのです。悟史も、雛見沢症候群の感染者などではなかった。悟史に対する鷹野の興味は、一気に冷めた。だから悟史は、物語の最後まで無事だったのではないでしょうか。
悟史が入江診療所から戻ってこないこと、これは梨花にとって計算外のことだった。さすがに、沙都子の一番の味方の悟史を消すつもりはなかった。邪魔者はすべて排除できたはずだった。しかし、排除してはならない者まで排除してしまった。おかげで、沙都子から笑顔を奪ってしまった。古手の古文書にも、悟史のような状態になった者を正常に戻す薬学は載っていなかった。もう、後は入江を信じるしかなかった。
それに、たったひとつ、懸念点を残してしまった。鉄平という存在を排除しきれなかった。雛見沢を逃げ出した鉄平。このまま永遠に戻ってこないのなら問題はない。しかし果たしてそう楽観してもいいのだろうか。
私の望んだ幸せは、手に入れた。しかし、最後の最後で、ケチがついた。まだ、私は動かなければならないのかもしれない。この幸せを、少しでも長く続かせるために…。
このような思惑を残し、舞台はようやく、昭和58年の6月に移ります。梨花にとって昭和58年の6月とはどのような意味だったのか。そのすべてを明らかにしていきたいと思います。
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