皆殺し編

 

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皆殺し編の展開は、祟殺し編と同じ。鉄平が、梨花の企てをすり抜け、沙都子のもとに戻ってきてしまった物語です。しかし祟殺し編と決定的にちがうのは、梨花が、圭一たち部活メンバーに、薬物を盛っていなかったということです。

 

 

 

 

皆殺し編のスタートは、綿流しの日の約2週間前。この2週間というのが、梨花の盛る抗うつ薬の効用期間を示すものなのでしょう。皆殺し編以外では、梨花は常に、綿流しの日の約2週間前に薬物を盛り始めていた。しかしこの皆殺し編においては、梨花は罪滅し編の記憶を継承していました。罪滅し編の部活メンバー、特に圭一の人柄やその強さに、梨花は惹かれてしまったのです。

 

だから、圭一に薬物を盛ることができなかった圭一が狂ってしまうことで惨劇を止められなかったこれまでの物語を反省し、圭一が狂わないことで劇的に良い方向に展開をみせた罪滅し編の可能性を信じ、お弁当に薬物を盛らなかったのです。

 

 

 

 

 

そのおかげで、鉄平が帰ってきてしまったこの皆殺し編において、梨花は打つ手なしだった。祟殺し編のように、部活メンバーが興奮して喧嘩にならないのは、圭一が短絡的な行動にでないのは、梨花がみんなに薬物を盛っていないからなのです。

 

この環境において、詩音だけは特殊です。彼女は常に、梨花が薬物を盛ることと無関係に唐突な狂気をのぞかせています。それは、彼女が双極性障害を罹患しているからです。もともと詩音は、梨花のコントロールと無関係に、展開によってうつになったり躁になったりしてしまうのです。だから皆殺し編においては、詩音だけが短絡的な行動を示唆し、それを圭一が止めるという展開になったのです。

 

 

モノアミン仮説 - 脳科学辞典

(抜粋)

双極性障害のモノアミン仮説

うつ病のモノアミン仮説で述べた仮説を考え合わせると、躁病では脳内カテコールアミン(ドーパミンとノルアドレナリン)の機能亢進、うつ病では脳内カテコールアミンの機能低下が生じ、躁病とうつ病の両方で脳内インドールアミン(セロトニン)の機能低下が生じるというモノアミン仮説が1970年代に提案された[11]。カテコールアミン機能の躁病とうつ病における対照的な変化は現在も妥当なものと考えられている。

 最近、双極性障害のドーパミン調節異常仮説が提案された。Berkらは双極性障害のドーパミン仮説を提唱し、双極性障害ではうつ病相でも躁病相でもドーパミン機能の異常が薬理学的に推定されると述べた[14]。すなわち、躁病相ではドーパミン機能の亢進が、うつ病相ではドーパミン機能の低下が推定される。躁病相ではドーパミン機能亢進に伴い、ドーパミン受容体の2次的な脱感作が生じ、続くうつ病相を悪化させる。一方、うつ病相ではドーパミン機能低下に伴い、ドーパミン受容体の2次的な感作が生じ、続く躁病相を悪化させる。このようにして中枢ドーパミン機能の調節異常(dysregulation)が双極性障害の病態で認められ、病相交代を繰り返す一因となっているのではないかという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鷹野と富竹について。

 

鷹野は梨花にとって相変わらず邪魔な存在です。しかしそれでも皆殺し編の梨花は、自分の死との関連性を鷹野たちの死に見出し、それを逆に防がなければならない方向性に舵を切らなければならなかった。

 

だから、祭具殿の中に一緒に入るということを、この皆殺し編で梨花は行ったのです。この行為こそ、綿流し、目明し編で示した梨花の鷹野排除計画を浮き彫りにしています。こうしないと、鷹野は綿流しの日にかってに祭具殿に入ってしまいます。それで沙都子のトラップに引っかかり、園崎家によって抹殺されてしまう。それを未然に防がなければならなかった。

 

そこで、鷹野を自分の監視下に置きながら、沙都子のトラップに気を配りつつ、鷹野と一緒に祭具殿に入ることにしたということなのです。万が一外部に祭具殿の侵入がバレてしまっても、自分と一緒であるから最悪の展開は避けられるという目算はあったと思いますが、それでもバレないに越したことはない。特にお魎に知れたら、梨花がなんと言おうと粛清が行われてしまう可能性が高い。だから、誰にも言うなって鷹野に念を押したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この皆殺し編より、梨花視点の記述が物語の中心になっていきました。ミステリーでいうところの、犯人目線での物語の俯瞰です。しかし梨花は、ちょくちょく自らの策略・犯行を否定するかのような思考の展開をみせています。

 

皆殺し編

鷹野たちの死は、私にとっては身を守る楯を失うのと同じことを意味する。だから、あの二人に、死の運命を伝え、何とか抗おうとしたこともあった…。

かつて、私たちがもっともっと長い時間を戻れた頃、両親に対して感じるようになった諦観と同じだ。……いくら抗っても曲げられない運命の必ず死ぬ存在は、やがて死ぬ前から興味が喪失する…。……そして長い時間が経過して、二人を救おうという努力をしたことすら、ついさっきまで忘れていたのだ。

 

 

例えば、上記です。これによれば、梨花は自分の両親を救おうと一旦は努力したってことになります。これは梨花が犯人だったなら、してはならない努力であり、この思考をすること自体が矛盾を孕んでいます。しかしこれは、これこそが羽入の効果、存在意義の現れだと思われるのです。

 

羽入「…………確かに、鷹野たちの死は、梨花の死と密接に関係する先触れなのです」

梨花「同じ運命なら、…いや、同じ犯人が同じ目的でやっている犯行なら。………あの二人の死を何とか覆すことで、私の運命もまた覆せるんじゃないかしら」

羽入「………梨花は多分、覚えていませんですが、ずいぶん前にもそう言って実行したことがありましたです」

 

 

これです。梨花は多分覚えてないだろうけど、というやつです。梨花は過去の行為をすべて覚えているわけではなく、それどころか羽入によって思い込まされている部分がたくさんあることを、前項までの多くのレポートで示して頂いてます。

 

その理由はほぼすべて、梨花の精神の安定のためです。解離性健忘は、自分の精神の負担になる記憶を、忘れて、乖離している人格に渡すことで、精神の正常化を図るためのシステムです。そのための羽入なのです。

 

だから梨花は、両親に対して行った自らの悪行を、忘れて、羽入にその記憶を渡すことで、自らの精神を守っているのです。そしてその羽入は、忘れた梨花の記憶の空白に、偽りの真実を伝え、塗り替える。あなたはもう覚えていないだろうけど、両親に対して、必死に救おうと努力していましたのですよ。と。

 

そのため、皆殺し編の梨花は、すでに排除が完了している両親の死が自分の所業だということすら、忘れているということなのです。

 

 

 

 

 

梨花「……では、話しますです。……雛見沢には、ある特別な病気があるのです。その病気の名前は、仮なのか正式なのかわかりませんですが『雛見沢症候群』と呼ばれていますです」

それは雛見沢を離れると、距離・時間に比例して発症確率が高まるというものだ。……だから、引っ越してきたばかりの圭一が、短期間で感染したことも運が悪いし、ある世界では、ほんの数日、親類の葬式のために雛見沢を出てそれが理由で発症するのも、天文学的確率で不幸だと言えた。だから、あまりに奇跡的確率での発症に、あの世界の羽入は申し訳なくなり、圭一にずっと謝っていたらしい。…まぁ、羽入が何を謝っても当人の耳にはなかなか届かないだろうが。 

 

 

では、この記述はどうでしょうか。

 

梨花は、雛見沢症候群を圭一が感染したと言っています。ある世界では発症したと言っています。鬼隠し編のことでしょう。鬼隠し編で圭一がおかしくなったのは、梨花の盛った薬のせいであり、雛見沢症候群は関係ありません。それとこの文章は矛盾していますね。

 

 

 

 

…………ここでいよいよ話が最初に戻る。

入江が「東京」と対立し、悪意ある切り札として古手梨花を暗殺しようとしている話。そもそも古手梨花がどうして切り札なのかの説明がいる。入江の研究によると、信じがたいことだが、梨花が村中に猫のように可愛がられているのは梨花の個人的魅力によるものではなく、女王によるというのだ。古手梨花の母も、小さい頃には村中から猫可愛がりだったという。でも、その状況は梨花の出産と同時に一変し、今度は村中が梨花を可愛がり出したという。

 

これが、雛見沢という舞台だ。

 

この舞台の状況の中で、昭和58年6月。

東京の連絡員である富竹が、予防薬の投与を受けているにも関わらず急性発症し異常な死に方で発見された。………入江が怪しい、鷹野が怪しいというこの状況に来て初めて東京を疑った。東京は味方のはずだと思っていた。もちろん味方だ。が死ねば大惨事になる。

 

 

それは、これで説明できるのではないでしょうか。

 

梨花がみんなに真実を伝えようと話しだした、その内容の大半は、梨花のセリフではなく地の文となっています。その地の文の終盤は、『私』という語り手の一人称が登場しています。もちろん梨花のことを示すのでしょう。ならすべての文章が梨花視点で語られているのかといえば、そうではありません。文章の序盤は、『私』ではなく『古手梨花』と表現されているのです。つまり、これが、雛見沢という舞台だ。という区切りの前後で語り手が変化している、前半の文章は梨花視点での文章ではない、ということなのです。

 

 

雛見沢症候群の真実を説明する前半の文章は、完全で公平な地の文、神視点での記述ではありません。なぜなら思考しているからです。神は考えない。読者に事実を伝えるだけのはずです。ならばその語り手は、神でも梨花でもない。

 

 

これを説明するために、皆殺し編の冒頭に、カケラ世界を俯瞰する者の存在を描写したのです。暇潰し編と同じやり口、叙述トリック。冒頭に登場した彼女以外に語り手にふさわしい者はいないのです。

 

 

 

 

彼女は「私たち古手梨花が」と述べています。古手梨花から分裂した存在ということです。そして、何もわからない生まれたばかりの古手梨花と会話している状況が冒頭で描かれている部分となっています。ならばその彼女視点で語られる文章とは、我々読者を映し出すかのような生まれたばかりの古手梨花に、語りかける文章になるということになります。

 

であればその文章は、犯人でありながら犯人に都合の悪い思考は文章化されない、上記の羽入と同じ理屈で、生まれたての梨花に記憶を渡さないための文章になり得るのです。

 

 

 

こうやって、梨花は自分の犯行を忘れていくのでしょう。自分の犯行をすべて覚えている存在から、思い出す必要のなくなった犯行を口伝されずに、世界に戻される。健忘症を発症してから意識を取り戻すまでの、梨花の頭の中の構造がこうなっているってことなのですね。

 

鬼隠し編の梨花の犯行は、鬼隠し編でない今この場において、古手梨花に必要ない情報です。だから、雛見沢症候群が発症したってことにしていい。そういう文章になってもいいのです。要するに、犯人が自分自身に嘘をついている文章を見せられているという構造なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これ以外にも、梨花の思考でおかしな部分はいくつかあります。しかしそのすべては、上記で説明できると思っています。梨花は、自分の犯罪を忘れることができる。羽入がどうしても許せなかったのが、この内のひとつである両親への記憶だった。

 

梨花は、自分が両親に対して抱いた思い、敵意、殺意のすべてを忘れた。それはさすがにないんじゃない?って羽入は思った。

 

だから、賽殺し編なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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