1. 三神怜子

 

 

 

 

 

 

 

 

ラストシーンのおかしさは冒頭で示したとおりです。しかしこのことは、視点を変えればある事実を浮き彫りにしてくれています。それは、ラストシーンでさえ不思議現象が起こらないほど<現象>と呼ばれるものに非現実性を認めることができない、視認することができない、ということです。

 

 

 

 

 

 

 

順を追って詳しく説明していきます。

この<現象>を俯瞰したとき、なんとなく不思議でなんとなく異様でなんとなく非現実的だという印象がありました。なぜ『なんとなく』なのかといえば、一部を除き、主人公含めてだれもその非現実を実際に見た者がいないという揺るぎない客観的事実があるからです。

 

 

死者が蘇るんだから非現実を視認しているじゃないか、と思われるでしょう。しかし冷静に見返してみてください。死者が蘇った瞬間を、死者が蘇る前との記憶の連続性がぶつ切りにされたという非現実な体験を、自覚できた人などいません。非現実を確認できているわけではないです。

 

そうはいっても過去に死んだ三神怜子が蘇って生活しているのを見てるんだからあきらかに非現実じゃないか、と思われるでしょう。しかし冷静に見返してみてください。死者は生者とまったく変わらない挙動をし、生者として世界に組み込まれていることに矛盾点が存在しない仕組みなのですから、死者・三神怜子のステータスは生者クオリティそのものとなります。であれば『生者クオリティの人物と生活する』ことそのものは非現実な体験とはなりません。当たり前の日常です。

 

死者が蘇る瞬間を目撃した人はいないし、蘇る前と蘇った後の周囲の環境設定に「変化・変更」を感じ取った人もいません。ここまでは、だれも非現実を体験していないのです。

 

だからこそだったんです。だからこそ私は、結末に非現実な何かを期待して求めていました。物語の最初からラストシーンを除く9割以上で恒一くんは非現実を体験していない状態なのですから、最後くらいなにかぐうの音も出ないほどの非現実があってもいいじゃないかと思っていたんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ではその物語のラストを見てみましょう。死者が死んだ後、非現実がいくつかあらわになりました。

 

 

 

①三神怜子が死んだのに死体が発見されず消えたこと。つまり人がフッと消えた。普通ではありえない。

②三神怜子が1年以上前に死んでいた事実が判明したこと。先刻までの三神怜子との生活のすべてが非現実な体験になる。ありえない現象。

③みんなの記憶から三神怜子に関するすべてが消えたこと。ありえない現象。

 

 

 

 

物語のラストで、ようやく非現実を体験することができましたね。ですが上記3つの現象は、果たして本当にありえないことなのでしょうか。先程、その非現実を実際に見た者がいないという揺るぎない客観的事実と記しました。ここです。これが重要です。実は『死体がフッと消えた』三神怜子は過去にすでに死んでいた』『みんな三神怜子を覚えていない』は客観的事実ではありません。すべて、伝聞や対話から察する状況証拠からそうとしか思えないという榊原恒一くんの推理推測でしかないのです。

 

 

 

①ここでの客観的事実は『三神怜子以外の6つの遺体が発見されたという恒一の認識が示された』であって『三神怜子の死体がフッと消えた』ではありません。

 

②主人公・榊原恒一が、死者・三神怜子が死者だったという過去を思い出し、「なんで死んでたことを忘れてたんだ」みたいになることはありませんでした。あくまで周囲の発言とヒロイン・見崎鳴による情報の補足によって「怜子さんが死者だったらしい」と結論づけたというだけのことです。なら仮にその補足情報がまちがっていたと仮定し、怜子さんが過去に死んでいたという事実がミスリードだったとしたら、それは怜子さんがずっと前に死んでいたなんて事はないという『それまでの恒一くんの記憶との整合性』が崩れることはなく、記憶の改変という非現実が認められていないという意味にもなります。

 

ここでの客観的事実は『みんなの記憶から三神怜子が消えたと鳴ちゃんが恒一くんに伝えた』『望月くんの言いまわしが三神怜子に関するすべてを無くしたかのような発言に聞こえる』であって『みんなの記憶から三神怜子が消えた』ではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これを踏まえて、ラストシーンをひとつづつ見ていきましょう。三神怜子が死者であるとする根拠は、終盤に相当数提示されます。しかしそれらを一つひとつ追っていくと、実はすべて根拠として相当薄い、だいぶふわっとしている、穴があるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恒一の祖父「人が死ぬと葬式だなあ」「葬式はもう堪忍、堪忍してほしいなあ」「理津子はなあ、可哀想に。可哀想になあ。理津子も、怜子もなあ……」

 

祖父のセリフは、最後まで言い切っていませんから、姉が死んじゃって妹も可愛そうだなという解釈でも問題ありません。

 

 

 

 

 

 

恒一の父「どんな感じかな、一年半ぶりの夜見山は。あまり変わりもないか」

 

父親のセリフは、恒一の記憶に抜けがあることを示すものです。その抜けが<災厄パワー>によって改変されたものであるようだ。なぜなら、その抜けの部分は、三神怜子が死んだ事柄と関連しているから。これが根拠なのですが、別に恒一の記憶の穴なんて、ストレスフルな過去を思い出させないようにする脳の防衛本能で説明可能です。中学時代の思い出したくない中傷の日々。それを思い出そうとすると頭痛がする、というのは、とても想像しやすい現象です。1年半前の記憶なんて、中学生活真っ只中の記憶なんですから、深く思い出そうとすると脳が拒否反応を示す。それが「ずうぅぅぅぅん」てやつだったとしても説明がつきます。つまりこの事象は、<厄災パワー>が発動したことを示す客観的な根拠、と断定はできません。穴があるのです。

 

 

 

 

 

 

九官鳥レーちゃん「どーして?どーして?」「ゲンキ……ゲンキ、だしてネ」

 

九官鳥のセリフは、怜子を失った悲しみを表現した祖父母のセリフの復唱であるそうです。これが根拠なのですが、「元気だしてね」という言い方をする人物に該当者が見当たりません。祖母が祖父に言うなら、「元気だしなさい」じゃないんでしょうか。どっちかというと、怜子が祖父母に言ったセリフであるほうが自然な言い回しのように感じます。つまりコレも、怜子が死者である根拠としては穴があります。

 

 

 

 

 

 

鳴「よく考えて、榊原くん」「この学校で、ほかのクラスに副担任の先生なんている?」「いないの」

 

これは、特殊すぎるクラスなんだから特別に副担任を置くという措置に、なんら不自然な点はありません。

 

 

 

 

 

 

鳴「美術部が今年の春まで活動停止状態だったのも、本当の理由はきっと、それまで顧問を引き受けていた三神先生が亡くなったからで……」

 

これは鳴の推理です。客観的事実ではありません。

 

 

 

 

 

 

鳴「今年の<災厄>が実は四月から始まっていたにもかかわらず、教室の机の数が足りていたのも……ね、これで説明がつくでしょ」「机の数はね、確かに新学期から一つ足りなくなっていたの。ただし、教室の机じゃなくて、職員室の机が」

 

これは、まず職員室の机が増減すること自体が相当考えづらいです。職員室の机の数なんて、その年にいる教員数を示すものであるはずないじゃないですか。なぜ教員数によって机を増減させないといけないのでしょう。使ってないデスクをそのままにしておくなんて、ごく普通の企業スタイルです。教室で机の数を生徒数にピッタリ合わせる必要性があるのは、生徒が掃除するのにだれも使ってない机を毎日毎日移動させるのが面倒だから、という理由くらいですよね。職員室の掃除なんて教員がやるわけじゃないんだから、いない教員の机を処分する理由がありません。ならば職員室の机が足りないのなら、この年の教員数が例年をかつてないほどオーバーしたことになります。税金で運営される公立校がそうなることには不自然さしか感じませんし、それを示す描写が存在しないので考えづらいですし、もし万が一例年をオーバーする教員数を抱えたのであれば、机を新たに注文しなければならないという手続きに現場が慣れていなかったために対応が遅れてしまったのだとしても不思議はありません。

 

机が足りないというのは鳴の認識を示すセリフなんだから、鳴のたぶんそうなんじゃないのという推理を話しただけであっても不思議はないですし、事実を話したんだとしても<厄災パワー>を示す根拠としては薄いです。

 

 

 

 

 

鳴「助けちゃ、だめ」「その人が<もう一人>なの」「色が――<死の色>が、見えるから」

 

<死の色>が見える現象には「どうやらその人が死に近いということを示すものらしい」という背景があります。それはすでに死んだ人に対して、つまり死者に対して見えることを説明するのにはたしかに十分かもしれません。しかしながら、その逆を証明するのには決して十分ではありません。

 

【A】死者からは<死の色>が見える

【B】<死の色>が見えたらそれは死者である

 

【A】は成立したとしても【B】は成立しないじゃないですか。<死の色>が見えたとしても、その人が死者ではない可能性だってある。病院内でめっちゃ<死の色>が見えるって言ってたじゃないですか。じゃあ病院内の人たちはみんな死者なんですか?ちがうでしょう?にもかかわらず、鳴ちゃんがこの最終局面で主張しているのは【A】ではなく【B】です。【B】だから三神怜子が死者だと言っていることになります。冷静に考えてください。これはどう考えてもおかしい理屈です。

 

 

 

 

 

 

 

 

詳細に見ていけば、三神怜子が死者であることを示す決定的な証拠は存在しないことが分かるかと思います。では後日談に進みましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怜子さんの存在を巡るそのようなあれこれについては、病院に駆けつけた祖母とのやりとりでも察せられたことだった。引率の教師として、ぼくと一緒に合宿に参加していた娘の安否を問うたりはいっさいせず、「こんなときに怜子が生きていたらねえ」と目頭を押さえていた。「お盆過ぎになりそうだけど、退院したら怜子のお墓参りに行かないかい」「恒一ちゃんが一緒だったら、きっとあの子も喜ぶよぉ」

 

これは別に、この直前に怜子さんが死んだことを示すものだったとしてもおかしくはありません。なぜなら、病院に祖母が駆けつけたのは恒一の意識が完全に覚醒した後のことだとは限らないからです。

 

どういうことかというと、クライマックス直後の恒一は気を失いある程度意識が回復するまで時間を要しています。意識を失っていたその間のできごとを「よく覚えていない」と表現しているのですから、起きていても覚醒していない状態だった、人の会話には反応できるけど記憶に残らない状態だった、でも別に問題ないわけです。その状態のときに、祖母との間で怜子さんについての会話があったとしてもおかしくないですよね。恒一がそのことを覚えていないだけで。

 

三神怜子は、合宿先の火事現場で遺体として発見された。それを祖母は聞かされていた。祖母はそれについての初期対応をあらかた済ませた後、恒一の病院に駆けつけた。怜子についての会話もした。恒一はよく覚えていなかった。恒一が完全に覚醒した。祖母は「こんなときに怜子が生きていたらねえ」と言った。この時系列でなんの問題もありませんよね。

 

 

 

 

 

 

「もしも陽介さんがひどい父親だったら、わたしが引き取って育てる、なんて。小さいころ、たまに会ったことしかなかったのにねえ」

 

幼少期にたまにしか会ったことがない。これは怜子が恒一に、という意味で捉えがちです。怜子は恒一が小さかったころにしか会ったことがない。つまり最近会っていた出来事が、祖母の記憶から消えているという不思議現象を説明しているわけですね。しかしこれはミスリードです。実は、「怜子が恒一に」ではなく怜子が陽介に」でなんの矛盾もないのです。

 

怜子と理津子の年の差を考えてください。怜子は陽介とは、理津子の結婚時くらいしかほぼ会ったことがない、でいいじゃないですか。そのとき理津子は18才、怜子は7才、7才の時に姉の結婚相手を見るくらいしか会ったことがない、で問題ないじゃないですか。

 

 

 

 

 

 

「お盆過ぎになりそうだけど、退院したら怜子のお墓参りに行かないかい」

 

お墓参りに行くのが恒一の退院後になるからお盆過ぎちゃうね、と捉えがちです。お墓がもうある、つまり怜子はさっき死んだのではなく相当前に死んだから、と読み取れるセリフですね。が、ミスリードです。

 

怜子はさっき死んだばっかりだから、お墓立つのもお盆過ぎちゃうと思うよ、でもお墓できたらお参り行こうね、おじいちゃんが葬式否定してるっぽいから葬式できないかもしれないし、恒一は入院中だから葬式あっても出れないだろうしね、だからお墓参りくらいは行こうね、でなんにも問題ないではないですか。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳴「三神先生はおととしの秋、亡くなったんだって」「例の佐久間さんっていう生徒が<いないもの>の役割を放棄したのが夏休み明けで、十月に入るなり生徒が一人死んじゃって……その次が三神先生がだったの。夜見山川で溺れて亡くなったって。榊原くんはまだ、思い出せない?」「十月の終わりごろ大雨が降って、川が増水した翌日、下流で先生の遺体が見つかったの。身を投げたのか、事故で流されたのか、その辺はよく分からないそうで……」「わたしもまだ思い出せないんだけれど、実際にはそうだったのね」

 

鳴ちゃんは、三神先生が死んでたことを思い出せないそうです。にもかかわらず、事故の詳細を語っています。「亡くなったんだって」という表現なんだから、事故の詳細も含めてすべて伝聞だということです。誰かが鳴にそう伝えたってことになります。その誰かの認識って、なんで絶対正しいって言えるんでしょうか。この物語において、記憶など1ミリも信用できないことは語られ尽くされています。

 

事実として、恒一くんや鳴ちゃんには三神先生が死んでた記憶に変わっていません。変更された記憶が正しくて、変更されてない記憶(これまでどおりの記憶)がまちがっているなんて、我々の現実世界の認識と真逆だと思いませんか?昨日とちがった記憶を話しだす人がいたら、我々読者の世界では「頭だいじょうぶ?」と言われてしまう案件です。にもかかわらず、この世界では自分の認識がまちがっていて周りが正しいと思ってしまうという逆転現象が起こっています。

 

 

そしてこの構図の恐ろしさは、さらに洗脳的に事実誤認させることが可能になっているという作用があることです。それは仮に、怜子さんが昨年死んだという情報と異なる発言や証拠などが恒一の前に示されたとしても、それに対し解釈変更を行い、どうあっても怜子さんが昨年死んだという結論に紐付けられていくものです。

 

例えば、怜子との最近の生活についての発言が祖母からなされたとすると、それは怜子が昨年死んだという事実と反する発言となり、ありえない発言ですよね。でも恒一はそういう発言を、こう思うのです。

 

ああ、祖母は怜子さんと深く接触してきたからな。まだ記憶の修復がうまくいってないんだな。

 

 

また、例えばテレビのニュースなどで合宿の事件が取り沙汰され、怜子さんの死について、また遺体が6つではなく7つだと報道されたとすると、それは怜子が昨年死んだという事実と反するニュースであり、ありえません。でも恒一はそういうニュースを、こう思うのです。

 

ああ、自分はまだ記憶の修復がうまくいっていないんだな。だからまだ怜子さんがつい先日合宿で死んだばかりだという風に、ニュースが聞こえてしまうんだ。本当はこのニュースは怜子さんの死なんか伝えていない。なのに現象の影響が抜けきれていない自分にはそう聞こえてしまうんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして。

 

 

 

 

 

 

鳴「みんな憶えていないよ、三神先生のこと」

 

クラスメイトはだれも三神怜子のことを覚えていないようです。これは記憶の改変という不思議現象が起きたことを示す、十分な客観的事実だとだれもが思うことでしょう。でも冷静によーく思い返してください。この状況にふさわしい、ここに至るまでに散々行われてきた、とあるクラスでの取り決めのことを。

 

 

 

 

 

 

 

 

鳴「増えた<もう一人>の代わりに、誰か一人を<いないもの>にしてしまう。そうやって、クラスを本来あるべき人数に戻してやればいい。数の帳尻を合わせてやればいい。それでその年の<厄災>は防げるっていう……そんなおまじない」

 

クラスのだれかを<いないもの>扱いにする

 

三神怜子なんて存在しない。

それがクラスで取り決められたとしたら。

 

 

 

 

 

 

 

三神怜子に対するみんなの記憶が消えたと恒一が聞いたのは、合宿先の事件後すぐのことではありません。その翌日のことです。つまり、恒一抜きでクラスで集まる機会が1日だけ存在します。そのときにクラスの取り決めが行われたとしたら。

 

みんな、急遽集まってくれてありがとう。今日は大事な話がある。これまでは、生きている人の誰かを<いないもの>にしていた。だから効果が薄かったということはないだろうか。死んだ人を<いないもの>にしてしまえばいいのではないだろうか?なぜならそれは26年前のミサキの件の、ちょうど対に相当するからだ。今回、合宿で何人ものクラスメートが死んだ。その責任はこれを強行した三神怜子にある。このままではみんな浮かばれない、そうだろう?しかしこう考えてみてはどうか。そんな人などはじめからこのクラスに存在しなかったのだ。だから今回の惨事はみな忘れよう。クラスメート同士で疑いあったことなどなかったことにしよう。それでいいんじゃないか?今入院している榊原くんには、見崎くんからうまくそのことを伝えてもらいたんだが、お願いできるかな?

  

このような提案により、三神怜子を<いないもの>扱いにすることが決められたとするなら――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は2枚あった。2枚めは勅使河原が抜けて望月が入り、彼は勅使河原の指示で「憧れの三神先生」にぴったりと身を寄せていて……。「怜子さん、写ってるよね。望月には、これが見えてないみたいだったね」

 

<いないもの>扱いにする取り決めは、心理的にとても強固で洗脳的です。実際その場にその人物がいようとも、まるでいないかのように振る舞わなくてはなりません。例えその人が写真に写っていようとも、見えていないように振る舞わなくてはならないのです。

 

恒一「あの合宿、参加者は何人だった?」

望月「ええと……14人。千曳先生を含めて15人」

 

参加人数を聞かれても、その参加人数に含めてはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただひとつ、この推測を否定したい心理的な側面を示す伏線はあります。それは望月くんは三神怜子に惚れているというファクターです。惚れている人が<いないもの>扱いにされた。望月くんは、これをなんの抵抗もなく受け入れられるものなのでしょうか。少々不自然です。

 

 

これは、望月くんが三神怜子に惚れているというファクターがミスリードであると捉えることで解消されます。これも冷静になって見返してみてください。望月くんが三神怜子に惚れているというのは、決して客観的事実ではありません。恒一や周りがそう思っただけに過ぎないのです。おそらくそうなんだろうと思しきリアクションを望月くんがとるのを、我々読者にも何度か示されてきましたが、それらに対する説明は、彼の姉へのリアクションと恒一の怜子に対するリアクションの類似性から別の可能性を見出すことが可能です。

 

 

 

 

望月「ねえ、榊原くん。三神先生のこと……どう思う?」

恒一「どうって訊かれてもなあ、困るよなあ」

望月「ああそう、まあ……うん、そうだよね。うん……」

幾度も小さく頷く望月の頬が、ほんのりとまた赤らんでいる。何だよ、こいつ――と、ぼくは内心ちょっと慌ててしまった。ほれてるのか?少年、美術の女性教師に。

 

「ぼくと知香さん――お姉さんとはね、産みのお母さんは違っても、血はつながっている姉弟だし……だからね、だから今回の件、もしかしたらお姉さんも巻き込まれちゃう可能性だってあるから」

「事情を話してしまった?」

「――うん。実際に何人も人が死んでるしね。ぼくやクラスのみんなのこと、とても心配してくれて」

云いながら、望月はほんのりと頬を赤らめる。――そうか、少年。きみの年上趣味のルーツはここにあったのか。

 

髪型も含めて、その面立ちには、写真で知っている母とどこか似通ったところがあった。そう意識すると、どうしても心のふしぶしが微熱を持ったように疼きはじめる。こうやって彼女と話すのは緊張するから苦手、というのは8割がた、この辺に原因があるんだろう。

 

上2つは望月の、3つめは恒一の、怜子さんに対する挙動です。似ているというか、見ようによっては同じに見えませんか?望月くんのリアクションをなぜかだいぶ上から目線で評価している恒一ですが、その恒一自身のリアクションも似たりよったりです。外から客観的に恒一を見たとき、それはやはり頬を赤らめているような表情だったりするのではないでしょうか。

 

恒一「ねえ見崎、きみはいつから分かってたの。三神先生――怜子さんが<もう一人>だっていうことを。何で云ってくれなかったわけ」

鳴「榊原くんにはどうしたって云えないよ。云えるはずがなかった。三神先生、亡くなったお母さんにとても似てたし。やっぱりな、って。特別な人だったんでしょ。榊原くんにとって、三神先生――怜子さんって」

 

鳴にもバレているということなのではないでしょうか。なぜなら恒一が三神先生と話すとき、望月と同じようなリアクションになるから。では恒一は怜子に惚れているのでしょうか。少し違いますよね?それは、いつもの調子で対応することができない、なんだかわからないけど心揺さぶられる人に対して見せるリアクション、ということなのではないでしょうか。

 

 

 

知香「いらっしゃい。あなたも優矢くんのお友だちね。いつも弟がお世話になってます」

恒一「えっ」

知香「姉です。はじめまして」

恒一「あ、はい。あのぼく……」

知香「榊原くんね。聞いてるわ、優矢くんから。――ご注文は?」

 

ということを踏まえて、このリアクションです。望月の姉、知香さんにはじめて会ったときの恒一のこのリアクションは、しどろもどろです。客観的に見れば、頬を赤らめていてもおかしくありません。この関係性って、【恒一・望月・怜子】の関係性と似ていると思いませんか?【望月・恒一・知香】という、肉親の間に挟まって会話しなければならないときの対応方法に苦心している様子という形が、です。怜子さんが三神先生として望月くんに話しかけるとき、恒一の肉親であるということと先生であるという難しい立ち位置の人とどう話せばいいのか分からなくなっている様子、という形で頬が赤くなることの説明になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

また、怜子さんのことが心配で家まで駆けつけた望月くんの行動に対して「そんなに惚れてるのか」と恒一は評価するのですが、これも別に惚れてなくとも説明が可能です。それは鳴と同じなのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

三神「何ですか、これは」

望月「ええと、あの。あの……ですから、レモンを」

三神「レモン?これが」

望月「レモンの叫び、です」

 

ムンクの叫びについては、作中にも解説がなされていますね。それそのものが叫んでいるのではなく、周囲の環境に慄いているという構図なのだそう。望月くんには、このときレモンがそう見えた。

 

 

鳴ちゃんは怜子さんに対し<死の色>を見てしまっていました。それは先述したとおり、怜子さんが死者だからではなく、怜子さんが死に近づいていたからという説明がつけられるわけですね。その状態の怜子さんを、望月くんも同じように見えてしまっていたのではないでしょうか。

 

 

レモンの周りにはクラスメートと怜子さんがいます。そんな3年3組の特殊な環境が、望月くんには壮絶なビジョンとしてバックグラウンドに見えてしまう。そんな望月くんの感性は、怜子さんにも死に近いことを示すビジョンが見えてしまった。鳴ちゃんにも見えたんだから、望月くんにも見えた。それまでにこれほど強く死のビジョンを感じ取れたことはなかったから、そんな人が無事でいられるのかと心配で家まできた。それでいいのではないでしょうか。

 

 

 

ですから、望月くんがすでに死んでしまった怜子さんをいないもの扱いにすることになんの抵抗も示さなかったとしても不思議はありません。別に惚れているわけではないのですから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後にもう一度、なんといっても恒一くんに『怜子さんが1年半前に死んだことを思い出した』という記憶の想起が起きなかったことを挙げておきます。上記までのすべての怜子さんが死者である根拠の不確かさなんて関係なく、この記憶が想起されるだけで<現象>の記憶改変の客観的事実となり、怜子さんが死者である根拠としてはたったこれ一つで十分な証拠になりえます。にもかかわらずそれがなされなかったということで、逆に上記のように膨大な量の『怜子さんが死者であると思しき状況証拠』が必要になるという構成になってしまっているのが見て取れ、そのことは取りも直さず三神怜子が実は過去にすでに死んでいたという認識客観的事実ではないという現実を一層浮き彫りにしているのです。

 

 

 

 

 

 

 

上記すべての状況から、いったい何が導き出されるのか。なにを導き出そうとしたのか。最初に戻ります。それは『物語の最初から最後まで、非現実が誰にも確認されていない』です。本編の三神怜子との生活は、死者との生活という非現実ではなく、生者との生活という当たり前の日常だった。それが意味するものは。

 

 

 

<現象>と呼ばれる非現実は、だれにも視認・認識することができない。

 

 

 

 

認識できない非現実とは、現実世界に住む我々にとってそれは存在しないものと同じ意味になります。もうちょっと正確にいうと、あろうがなかろうが関係なく現実世界の理屈で成り立つものです。例えば『死後の世界』と同じですね。死後の世界とは、そういうファンタジーが現実に存在しようがしまいが関係なく、それとは無関係に『脳が見せた夢』という現実世界の理屈で説明できてしまうものだったりしますよね。それと同じです。

 

つまり、この『Another』における非現実な現象は、視認できない以上存在しないと捉えることになんの疑義も生じないということです。有り体にいってしまえば、「そんな現象なんてはじめから無かったんだよ」が通せる世界だということです。

 

『Another』は現実世界の理屈が通せる。

『Another』に<現象>なんてものがそもそも無かった、が通せる。

 

 

 

 

 

 

 

となれば、この『Another』の<現象>とは。

 

誰も見たことがない存在しない非現実が、さも存在するかのように思い込まされ、それに踊らされた物語、と言い換えることができるのではないでしょうか。 

 

 

 

 

 

<現象>なんてものがそもそも存在しない、にもかかわらず存在してるかのように展開される本編の話は、いったいなんなのでしょうか。一つひとつ解き明かしていくこととしましょう。